福厳寺の僧侶であり、大愚和尚のYouTube「一問一答」の動画配信などを手がけている雄興知哲さん。福厳寺の出版物等を扱うナーランダ出版の社長でもいらっしゃいます。
知哲和尚は、2024年の元日に震災のあった、能登半島のお寺の弟子として育ちました。現在も福厳寺で僧侶を務めるかたわら、被災した能登のお寺の住職も務められています。
そんな知哲和尚が、このたび「佛心の輪インタビュー」に登場し、ご自身のことを語ってくださいました。今回から3回に分けてお届けする、知哲和尚のインタビュー。第1回目は、和尚の子ども時代を中心としたお話をご紹介します。
自然豊かな能登の山奥で育つ
◾️どのような環境で生まれ育ったのか、幼少期について教えていただけますか?
知哲:私は石川県の能登半島にある農村のお寺で育ちました。自然豊かな場所で、お寺だけのためにあるような細い山道を登った先にある山寺が、私の育った場所です。祖父母と父母、それに父の弟(叔父)、私と弟妹の、合計8人家族でした。
◾️大家族だったのですね。
知哲:そうですね。いま思うと食事の時間はにぎやかでしたし、母は食事の準備が大変だったろうと思います。
父は当時サラリーマンをしており、寺では副住職で、祖父が住職を務めていました。母もパート勤めをしており、家計的には楽ではなかったと思いますが、そんななかで私たち兄弟3人を育てていただいたこと、本当に感謝しています。
◾️小・中学生の頃はどんなお子さんでしたか?
知哲:学校までは急な坂道を含む約2キロ道のりを歩いて通いました。車で送ってもらうこともありましたが、基本は歩き。そのせいか小学校の頃はクラスで一番足が速かったです。
クラスと言っても少人数で、小学校は一学年12人、中学校でも16人ほど。みんな仲がよく、親戚みたいな感じでした。都会の感覚とは違いますよね。
◾️能登はどんなところなのか教えてください。
知哲:能登は自然豊かな場所で、海の幸、山の幸と食べ物が美味しいところです。子供の頃は、蜂やヘビもよく見かけました。都会の人は「自然は癒される」といいますが、私は「自然って怖いな」と思いながら育ちましたね。窓を開ければ大きな虫が入ってくるし…。雨や風、冬には雪も積もる厳しい環境でした。
◾️そう伺うと、確かに自然の厳しさを感じます。
知哲:こういうガラのヘビに注意しろとか、特定の植物には触るなとか、そういうことを自然のなかで学びました。この花は食べられるけど、このキノコは毒がある、みたいなことも。
◾️そういう学びは貴重ですね。
知哲:いたずらもよくしましたよ。たとえば、当時の近所のお宅の敷地内にある柿の木に実った柿を友達といっしょに取って食べて叱られたり。いま思うと悪気はなかったんでしょうけど、そもそも田舎すぎて敷地という概念がなかったのかもしれません(苦笑)。川や山で遊ぶことも多く、本当に自然のなかで育ったという感じで、それはとてもよかったと思います。

自然と受け入れていた「お寺の子」
◾️お寺の子どもとして育つことに窮屈さはありましたか?
知哲:はい、多少は感じていました。周りの目もありましたし、「いずれ寺を継ぐだろう」という期待を勝手に感じていたところもあります。でも、檀家さんたちには幼少期はとても可愛がっていただきましたね。学校の帰りに、声をかけてもらったり、お菓子をいただいた記憶など、感謝の気持ちが強いです。
◾️ご両親はどのような方でしたか? 知哲さんから見て、厳しいご両親でしたか?
知哲:厳しさという意味では、両親というよりも祖父ですね。
やはり当時の住職でしたし、とても厳しかったです。たとえば、廊下を走ると「走るな!」と怒鳴られ、音を立てないように静かに歩くよういわれたり。戸を開け閉めするときも「音を立てずに、そっと閉めなさい」とか、細かなことを注意されました。
掃除に関しても、人の目が届かないところも綺麗になっているか常にチェックされましたね。でも、そういった注意や、厳しさは今になってその重要性を感じていますし、祖父にはとても感謝しています。
ただ、お正月やお盆の時期は、基本的に寺の行事があるので、友達と遊びには行けませんでした。
◾️やはり周りの子とは少し違う環境だったんですね。
知哲:そうですね。他の友達は休みに入って遊びに行けるのに、なんで自分は行けないんだろうと思ったことはありました。でも、それで反発したり、ぐれるということはなかったですね。
◾️環境を受け入れていたんですね。
知哲:はい、そうです。自分の家はそういうものなんだなと思っていました。小さいお寺でしたが、「自分はお寺の後継なんだと」と感じていて、祖父の言いつけを守って過ごしていたと思います。
◾️なるほど。知哲さんは、小さい頃からおっとりとした親しみやすい雰囲気を持っていらっしゃったんですね。
知哲:そうかもしれないですね。特に悪いことをした記憶もないですが、その代わり「遊ぶ」ということには貪欲で、常に自分のいる環境を活かして「どう遊ぶか」「何をしたらワクワクするか」を考えていました。

コンプレックスを乗り越える力になったもの
◾️当時、特に印象に残っているエピソードはありますか?
知哲:寺の裏に山があって、そこを毎週末、学校が終わってから、近所の友達数人といっしょに探検するのが楽しみでした。自分が何か物語の主人公になったような、忍者にでもなったような気分で、落ちている棒を拾って、それを剣に見立てて、裏山を駆け回って遊んでいました。裏山には小さな滝や洞穴、沼や、大岩などいろいろな場所があって、それらに勝手に名前つけて、基地にしていました。
◾️それは楽しそうですね!
知哲:すごく楽しかったですね。ただ、いま思うと、小学生が子どもだけで山に行くのは危険だったと思います。実際、野犬に襲われたり、友達が崖から転げ落ちるなんてこともありました。でも、そんな小さな冒険が、当時の自分たちの勉強になっていたと思いますし、いい時代だったと思います。
なんせ自分たちは、忍者の修行をしていると思っていますから、必死でしたね(笑)
◾️結構ワイルドな遊びをしていたんですね。
知哲:そうですね。いつも泥だらけで、擦り傷だらけで帰ってくるのですが、親もよく行かせてくれていたなと思います。そんなこともあって、自然と体力がつきましたね。足腰も強くなって、小学校低学年の頃はスポーツテストで低学年らしからぬ記録を出していたので、高学年のお兄さんたちから注目されることもありました。
◾️学校生活はどのようなものでしたか?
知哲:学校生活も楽しかったのですが、当時一番のコンプレックスだった、「髪の毛がなかった」ことで、小学校入学後しばらくからかわれたり、いじめられていましたね。
4歳くらいから脱毛症(自己免疫疾患)があり、いまのようにツルっとした頭になっていて。「ツルピカハゲまる」「ハゲ坊主」とからかわれて、最初はすごく傷ついて落ち込みました。子供ってすごく、ストレートで残酷ですよね。
◾️それをどうやって乗り越えたのですか?
知哲:一度祖父に風呂で「こんな酷いことを言ってくる奴がいる」と相談したことがあって、そうしたら「お前はお寺の子なんだから、髪の毛なんか無くて良い!ピッタリじゃないか!!」と言われ、なんとも納得できない心境でしたが、祖父から言われた「それがお前の個性だ、堂々と胸を張って生きろ」というメッセージが、ずっと心に残っています。
当時は、コンプレックスを乗り越えたというより、たまたま私の行動が皆の心を惹きつけたことをきっかけに、状況が一変しました。
私は絵を描くのが得意だったんです。絵を描いていると、いじめっ子たちが「すごいじゃん!」といってくれて、次第にからかわれることがなくなり、むしろ人気者になりました。
当時はSDガンダムが流行っていて、その友達の特徴にあったアレンジした「○○君専用SDガンダム」をノートに描いてあげたりして、クラスにちょっとした行列ができることもありました。

◾️それが自信につながったんですね。
知哲:そうですね。祖父が絵を描くのが得意で、水墨画や掛け軸に絵を描いていて、それを見て自分も絵を描きたいと思ったのがきっかけです。父も背景画などを描くのが上手で、それを見て誇らしい気持ちになったことも影響していると思います。
絵を描くことで友達に一目置かれるようになり、それが自分の武器(佛性)だと思えるようになりました。いまでも、絵を描けることには感謝しています。
◾️唯一無二のものがあることは素晴らしいですよね。知哲さんの絵やイラストは本当にあたたかくて、見ているとほっとする感じがあります。
知哲:ありがとうございます。絵だけでなく、もともと物をつくることがすごく好きで。中学生や高校生の頃には、ゲームをつくるソフトがあったんですよ。当時、それを買ってきて、自分でゲームをつくって、友達に「やってみて」と渡して遊んでもらったりしていました。
◾️ビデオゲームですか?
知哲:はい。それに加えて、高校くらいになると、クラスの人気者といっしょに何かをつくるようになりました。話が面白い子がいたので、彼に何かしゃべってもらって、それを録音して編集し、ラジオ番組風に仕上げたりしました。
テーマ曲やCMも自作して、凝ったものをつくっていました。それはまさに、いまの自分の活動の原点だと感じます。
◾️高校生の時からそういう興味があって、それがいまも続いているんですね。
知哲:年賀状を書くのも好きで、それは自分のクリエイティブな部分を発揮できる場でしたね。一年の締めくくりとして、力作の年賀状をみんなに配るのが楽しかったです。
友達一人ひとりに違う絵を描いて、組み合わせるとひとつの大きな絵になるとか。暗号を入れて5枚揃えると特別なメッセージが浮かび上がる、なんて工夫も凝らしていました。
◾️そんな時代を能登で過ごされたんですね。
知哲:はい、高校生までは能登にいました。そして、大学は東京の大学へ行き、その後、本山で僧侶としての修行をしました。ただ、修行が終わった後、すぐにお寺に戻ったわけではありません。
うちは過疎地にある寺で、檀家さんも少ないので、祖父、父、私と3人も僧侶がいる必要はないんです。そこで修行が終わった後は、自分の生活を支えていくための技術を学ぼうと思い専門学校に通いデザインを学びました。
「クリエイティブ」へのめざめ、そして葛藤
◾️お寺を継ぐことは最初から決めていらっしゃったんですか?
知哲:そうですね。自分のなかでは選択肢が他になかったです。小さい頃から祖父に「お前は、苦しんでいる人を助けられる、いい坊さんになるんだぞ」といわれて育っていたので、自然とその道を進むものだと思っていました。
◾️それを素直に受け入れていらっしゃったんですね。
知哲:はい。高校も大学も、お坊さんになるための道筋として進みました。ただ、当時は仏教について深く考えることはなく、ただ「将来は住職になるんだろうな」というくらいの気持ちでしたね。
◾️大学で仏教を学んでいくなかで、何か意識の変化はありましたか?
知哲:大学に入って初めて「うちのお寺は小さな山寺で、大変な場所なんだ」と気づきました。自分と同じようにお寺の息子がクラスにいるのですが、他のお寺の話を聞くと、都会と田舎では規模やお寺の状況が全然違っていて、それに驚きましたね。それで、自分も仕事をして、自分の生活は自分でできるようにならなければ、お寺も支えられないと思い始めたんです。
◾️そこから、クリエイティブなスキルを活かして何かを始めようと思ったんですね。
知哲:はい。当時はホームページ制作が盛んで、WEBデザインの勉強をしていました。
24歳から30歳くらいまでは、東京でウェブデザインを学びながらフリーランスとしてホームページ制作も行っていました。東京に知り合いのお寺さんがあって、土・日曜は法事のお手伝いをして、平日はホームページをつくる、という日々でしたね。
WEB制作の仕事をやっていることには、やりがいを感じていましたし、東京の街も刺激的で、クリエイティブの最先端を感じることができました。しかし長い目で考えると、自分には難しい場所だと思うようになり、石川に戻ることを決意しました。ちょうど30歳を迎えた頃でした。

能登の自然豊かな山奥で育ち、厳しい祖父のもとで「お寺の子」としてその役割を受け入れながら、素直に成長された知哲和尚。お話から、周囲の期待を感じつつも反発することなく、自らの環境を受け止めて歩まれてきた、そんなひたむきな姿を感じ取ることができました。
幼い頃から物づくりやクリエイティブなことに惹かれ、ビデオゲームやラジオ番組づくりに没頭していたというエピソードには、いまナーランダ出版で発揮されている才能の源流を垣間見ることができました。困難を前向きに乗り越え、創造することを楽しむ力は、まさにこの頃から培われていたのですね。
次回のインタビューでは、知哲和尚の人生に大きな影響を与えた、大愚和尚との出会いについてお話しいただきます。どうぞお楽しみに。
(取材:エンジェル恵津子)


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